いつも思う、山月記はうまいことをいっている。「臆病な自尊心と尊大な羞恥心」

 高校生のときの模擬試験の順位、1つ1つの教科の偏差値はだいたい学年で言えば10番くらい、とくべつ、強みに出来る教科はひとつもない。だけど総合順位だとぽーんとヒトケタに上がる。つまりは、それぞれ、それなりに点をとったひとがあまり居ないのだということがわかる。

 恥ずかしい事に社会に出ていないから、学校の話しのたとえでしか続けられないけれど。講義を休むってみんなにとっては、けっこう当たり前な事(なのでしょうか?)。だいたい、自分が辛くて辛くて仕方がない時って、講義に来ない人が目立つときでもある。似たようなスケジュールで過ごしているから、キツさも少しは似通ったりするよね。それでもわたしは、講義を休んだ事はない。途切れさせないということって、けっこう努力がいるもので、やっぱり「それなり」を保ち続けることを、ちょっとは当たり前って言わないで欲しいなって思うこともある。辛いときね。

 継続は力なりとも言うけれど、それが何の力なのかは直接よくわからないことが多い。講義を休まない事をが偉いとおもったことはない。出席点の意味もわからない。そしてそれで得た成績はもっとわからない。そしてそしてそれだけで成り立つ主席という称号も、窮屈な肩書きでしかない。だけど、意外とみんなはできないことなんじゃないかと思えて来た。

 講義に毎回出ていると、大教室であっても、提出物の内容もあってか、先生が覚えてくれる。いつも聞いてくれてありがとうって突然言われたりすることもある。不思議なコミュニケーションだと思う。こんな風に続けていると、チャンスは増えることは確かだ。だけどそのチャンスを自分が望んでいるかは別だ。

 わたしを誰かに説明するとき、ネガティブな表現でも構わないときに限るけれど、「究極のめんどくさがり」という。講義に出る事を、熱心だと勘違いする先生が多いけれど、わたしはテスト勉強をするのがめんどうくさいので、その時に終わらせたいと思う気持ちが自分を突き動かしている事を自覚している。(でも、一応言い添えておくと、はじまりはめんどうくさがりだけれど、やりはじめればそこに楽しさだったり面白さだったりを見いだす事も当然ある、面白さが先行することだってあるし、それが人よりもかなり多い事もまた確かではあるけれど)。

 そして熱心の観点から言えば、自分を机に向かわせるもう1つのモチベーションは「気の弱さ」これをやっていかなかったら、迷惑を被る人が居るだとか、先生が怒るだとか、悲しむだとか、そういったもの。わたしをとりまくモチベーションの源はそんな風に、ぐらぐらとしたものだ。ほんとうに「臆病な自尊心と尊大な羞恥心」って上手くできた表現だなぁ、と思う。まさにわたしのことだなぁ、って思う。チャレンジ精神も、主体性もないのに、結果としてあるようにみせてしまっているのだと思う。

 今更気付いたけれど、「究極のめんどくさがり」に、研究者としての素質はないように思える。何でも「それなり」にこなしていくようなことが、誰かの役に立つような場所をさがす。とりあえず研究をそれなりにしながら。