'今のスマホ漬けの若者たちが「ヒトリノ夜」と「アポロ」を聴いて何を感じるか、知りたいところだ'と言われたから。

2014年2月8日の朝日新聞のbe(だったでしょうか)の「聴くなら」というコーナーに「ヒトリノ夜」と「アポロ」が紹介されていました。
そのなかで'今のスマホ漬けの若者たちが「ヒトリノ夜」と「アポロ」を聴いて何を感じるか、知りたいところだ'という言葉が添えてあったので答えてみようと思います。

 

問いを言い換えたら「儚いデジタルのデータだけでつなぐ関係に何を思っているのか」ということで考えます。

わたしはこう解きます(晴一の辞書風にw)...
「手段が増えたぶん、よろこびもかなしみも2倍以上である」
もうこれに尽きるけど、お時間がある人は最後までつきあってください。

 

別に、スマホ漬いてるからって、手紙がなくなったわけじゃない。

(この間ちょうど晴一さんがラジオで言っていた気がするけれど)むしろ手紙を送る頻度が減ったことで、手紙が「特別」な手段になっているかもしれない。

それに加えて、「スマホがなければ繋がれなかったひと」に巡り会ってるっていう可能性もあると思う。

それはネットやグローバルな関係のことだけのことを指すんじゃなくて、日常のささいな関係のことにまで及ぶと思うのです。

 

中学生のとき、わたしは当時気になっていた人に、

ケータイのアドレスを聞かれました。だけどその時わたしはケータイをもっていなかった。もしその時にLINEみたいなツールがあたりまえに普及していて、自分も持っていたら、もうすこし踏み込んだ話しができるような関係になっていたのかもしれないし、それが原因でけんかをしたかもしれない。

結局そのひとは、家に電話をかけて来てくれるようになった。電話は必ず家族が取り次ぐし、会話はリビングにつつぬけだけれど、嬉しい言葉も言ってくれた。だけどわたしは恥ずかしくって、そのほとんどを拒否してしまった。

 

高校に入って年齢制限が解除された日から、わたしは毎日mixiで日記を書き始めた。

そうすると「ふだんあんまり喋ってなかったけど、日記読んだら結構話せるんだなってわかった」ってクラスの子に言われて仲良くなったことがある。

リアルとか、ケータイの日記とかで名前を出し合うことで友人関係が可視化されていたと思う。幸い、いじめなんてそこにはなかったと思ってるんだけど、実際はどうだったんだろう?勝手にテストの点を晒されたことはあったけど。笑

 

大学に入ってからも、mixiはしばらく便利なツールだったと思う。

大学1年生のころは毎日日記を書いて、コメントもそれなりに来たのを覚えている。誕生日にもいっぱいコメントをもらってすごく嬉しかったけど、同時に毎日更新するのが大変になってた。

夏休みにひとりの人と仲良くなって遊びにいった事を周りの人に知らせてはいけない気がしたから。公開範囲を限って日記を書くようになってた。だれにシェアをするべきなのか、してはいけないのかというのばかりに気を取られるようになっていた。

更新をやめます!!と宣言をして日記を書くのをやめた。その日記でさえ反応が気になってた。

2年生になって授業で紹介されていたTwitterに登録した。

講義の内容で気になった事をtweetしたら、尊敬する先生のほうからフォローしにきてくれて、tweetみてます!!って返事をもらって。それからしばらくして、わたしをみつけて学食で声をかけてくれたのがすごく嬉しかった。こんなに先生との距離が縮まったのはメディアのおかげだと思った。

でもその先生は同時に、講義でコメントシートを映し出してやりとりをするっていう方法もやっていた。自分が書いたコメントシートがもしかしたら講義中に読み上げられるかもしれないっていうラジオみたいな時間だった。

わたしはそのコメントシートを無記名で出した。でもいつも読まれた。「この人とは気が合いそうですね」って大教室で言われた。

2年生の途中では、趣味で書いていたブログがちょっとだけパブリックなものになった。

ブログを通じて、たくさんのリアルなお知り合いもできた。

3年生になって、プロジェクトが忙しくなった。Twitterやブログを更新する「ネタ」や「ヒマ」があることが後ろめたくなった。パブリックなお願いやアルバイトでしか、あまり書かなくなった。書きたいのに書けないという状況のなかで、Twitterを一回やめたりした。でも、連絡手段としてなければいけないツールになっていたから、1ヶ月たたないところでアカウントを復活させた。

4年生になってからは、FacebookやLINEをつかって、非公開のグループでやりとりすることが多くなった。見られたくないけど、連絡も会話も、議論もしたいっていう希望を変えてくれるツールや設定が豊富にあった。

同時に、その設定に狂いがあってはだめだった。自分が気をつけていても、他人の不配慮に不意に傷つくことがおこるようになった。

「大変申し訳ありませんが、予定が立て込みすぎて、この先君たちの論文を見ている時間がとれません。」でもその先生が「この投稿にLikeしました」と、Facebookの通知が知らせて来る。Facebookと、わたしたちを天秤にかけた結果が簡単に可視化されるようになっていた。

 そういったことを、LINEをつかって夜な夜なとりとめのない話しを交えながらしたこともあった。自分がおかしいと思うことが、自分だけじゃないのかどうかをすぐに、お互いに確かめあうことができた。

 

悪循環とも、徒労だとも言えるようなことが多いと思う。

辟易するような出来事がいっぱいあふれている。

その傷を癒すのに、同じ手段を使うとは悲しいことだと思う。

 

この文章も、ずっと下書きのまま保存していた。

文章を書くのが嫌いだと気付いたり、インターネットそのものがいやだと思ったりもした。もう400日近くも前の日記だけれど、今すこし継ぎ足して外に出そうと思う。(2015.2.10)


 ほとんどのコミュニケーションにはLINEを使うようになった。パブリックじみたこともプライベートも全部LINEでできるようになった。Facebookは相変わらず、余計な事を知らせてくれるから嫌いだ。相対的な幸せに拍車をかけるツールだから、大嫌いだ。だけど、これが研究材料だから、これがなければ私は卒業試験に手をかけられなかったとも思う。

 

 最近は大切な人から「手紙」をもらった。誕生日プレゼントに手紙をお願いしたら、すこし忘れたころにくれた。それは、スマホ漬けだからこそ、希少価値が上がった、とってもレアなもの。メールもあまり好きではないという人が手紙をくれたんだ、それだけで宝物。おそらくLINEでぽんとトーク内容を送るよりも、時間を逆算して、内容をきっとすこしは想像して、ペンを走らせたのだから。

 

 こうやってツールが増えることは、選択肢もそれに伴う価値も倍増することにつながる

おっきな幸せを得る事も、必要以上に落ち込む事もできてしまう。だから、電波が不安的なときには思い切ってiPhoneは電源を切っても良いしここぞというときに、素敵な便せんを選んでもいい。パブリックじゃあそうもいかないことがあるなら、プライベートならなおさらでしょう。

 

全部自分が前向きに頑張れるように使うようにしたいものだな、と思う。色々と自戒を込めて、公開ボタンを押す。