ブラックバイトに寄せて【やりがいの搾取】

学生時代、金銭的報酬のないイベントスタッフとしてその説明会に参加した時のこと。 参加の特典としての報酬は「なんだかすごい先生のありがたいお話」だった(ここまで抽象度をあげてかくとちょっと変だけど…w)。 そしてその先生のお話は、わたしの理解力では「金銭的報酬はなくとも、この経験こそが報酬と思える、そう思えるひとはデキる人」というものだった(その時は必死に必死にそうか、そう思えるようになろう。なろうとしていた、少なくとも、一応)。

誤解がないように言っておくと、そういう考えかたの人が伸びるのは正しい。 その方自身の考え方はとても素敵だと思う。 日常生活が断片的に仕事やプライベートと分かれているよりは、横断的にいい意味で混在していて、そしてお互いにメリットのあるような生活をおくることがおそらく理想的な生き方だと、今もそう思う。

問題なのは「雇用する側」や「力のある人」が「下の人」に向かっていうこと。 報酬と思える経験かどうか、は報酬を享受する側が決めることだ。と思うから。 どんなに割にあわないこと、嫌な思いをすることも「はい、報酬のような経験だね!!!★」と言いくるめられてしまう息苦しさがある。 言いくるめられる、というか「つらいことも報酬と思えないようじゃあ、自分はダメなやつだ」という謎の無限ループに陥る。 内発的動機がない自分は異常なのだと思い始める。

ちなみに、一生懸命報酬だ、報酬だ、と思おうとしていた私の目を覚まさせてくれたのは

「死ね」

の一言でした。 言っておくと、自分が何かミスをしたわけでもなんでもない。

今も忘れもしない、尊敬していた先生にニコニコしながら言われたことば。日付もだいたいの時間も思い出せる出来事。

ほんとにくだらない会話の中の、周りを笑わせようとした中のほんとうに一瞬(後にお伺いしたらご本人は覚えてさえ、いなかった)だったけれど ぱっと 「ああ、この方にとって、私は自分って死んでも別にいい存在なんだなあ、あってもなくても、変わらないんだ」と思って そこで「駒感(使い捨て感)」が確信に変わったという、そんな思い出があります。 そんな風に思ってないかもしれないけれど、本能的にはそうなんだろうってこと、結構あるよね…そういうのって、何気ない言葉に出ちゃうんだよな、と思う。

よく、ブラックバイトだとか、そういうものとは別の危なさということもあったりする。 たぶん、こういうことに遭遇した人は 自分は稀有な機会に恵まれてるのに、どうして頑張ることができない?と悩むことになる。 たいてい、特別に声をかけてもらったり、特殊な機会だから、と参加できることに優位性があったりするものなので辞めにくいもの。 そうすると、バックレるとか、選択肢はあるんだろうけれど ばっくれる勇気もない人は、そっかそういえば死ねって言われたしなぁ、と帰り道の電車を待つ間に線路を眺めてぼんやりとそんなことを思ったりする(これって自殺企画というらしい…)。

課外活動などをしていて、それに時間も気力も取られていて…結局自分に何も残ってない!!みたいなことがある人はたぶん居る。 そういう人は、就職活動でも多分、その活動に参加していたことを一応話してみるけれど そこで得たものは?という問に、漠然とした「た、達成感…?」みたいな回答になると思う。

そうでなくても、できるようになったことはと聞かれて「◯◯を作るのが大変だった」「買い出しが大変だった…」みたいな作業にフォーカスがあたるようなもので、スキルではない(広い意味ではスキルかもしれないけれど、それは業務の中でその環境でささっと身に付けることの方が望まれるものだ)。もちろん、そうした作業ができること、そこに粘り強さみたいなものを評価してくれる場合もあるはずだけど。 とにかく、そんな環境にだらだらといる人は、一旦、考えなおしてみると良いのではないかな、と思う。(それでもって、自分が興味のあることに本腰を入れたいから、ときちんと説明して、やめよう)。

とにかく、内発的動機は取り組んでいたら来るようなものではなく、 お願いしたら生まれるものでもなく、意図的に発生させることもできず、たぶん勝手に湧いてくるものだ。 湧いたようには振る舞えるし、そういう「考え方」があることを理解して同じようにこなすこともできる。でもそれはつらい。

そして、それは環境への適応とつながる。 自発的にできるひとが偉く、成果物が良ければ更に評価される…

それが社会の流れになっているけれど

自然淘汰というものは、優位なものが残るというわけではないらしい。 その環境にたまたま合った人がたまたま残っているに過ぎないというのだ。

そんなにころころ環境を変えることなんてできないけれど、 合わない環境を嘆いたり、自分の脳力の低さを憂う必要もないということだと思う。だからといってそれにかまけていたらダメですけどね。 「合わせる」ところに労力が必要なくらいならそれは遠回りということ。

これに似たものに先生からの理不尽な要求に添えられる「社会に出たらこれくらいじゃあ、済まないからね」というセリフ。社会じゃないのだから、やめてくれたまえという感じである。 学生がわがまま言っていいというわけでなくて、「理不尽な押しつけをそういう理由でいうこと」が理不尽なのだ。

とにかく、学生という期間、それは葛藤の日々だった。