「劇的」な気分の変化について(個人的なパラダイムシフトは存在しえないとしても)

 最近は「物事は変わらない」ということをよく実感する。言い換えれば、考え方や見方が変わるだけなのだということ。差し迫る状況はかわらないけれど、ころころと自分の心持ちはかわる。同じ物事なのに、「大丈夫」と「ダメかもしれない」をいつもいききする。いつも同じ気持ちで居るなんて無理であることも確かだけれど、できればもうちょっとふてぶてしく居たほうが幸せな気もする。大丈夫なときは大丈夫だし、ダメなときはダメなんだからね。これだって、いまこんな風にぺちぺちとキーボードを叩くほどの余裕があるとき、こんな、お気楽なけせらせらみたいなことが思えるというだけの話しなのです。

 ここまで書いたものを、下書きとして保存していたわけですが、今日も朝出かけたときとはまったく違う気分で家についた。学校は休日だけれどもゼミはあって、でもゆったりとした時間と余裕のあるスケジュールで早めに次の課題まで終わらせられる見通しでいた。なのに、いつの間にか泣きながらどうやって辞めますと言おうかとひたすら考えて言えないだけの時間の中にいた。そうやって研究1つとってもその進み具合なんて変わりはしないのに自分の心持ちだけがころころと。それも真逆なのが厄介。

 

 せっかくなのでパラダイムシフトの話しをちゃんとしておきたい、一番しっくり来ている話しをしたいと思います。「美術」のパラダイムシフトのお話。

 昔は美術は、細密な絵や陶磁器のような「どこへいっても変わらない美」というものしかありませんでした。それを大切に飾っておく事、できれば均質な(室温、湿度に最善をつくしたような)室内で見せる事に神経を尖らせる必要があった。

 今のパラダイムシフトを迎えた美術は、「そこでしか完成しえない美」というものが存在する。風景に重ねるアート、夕景のときだけ輝く展示。刹那的体験をどうつくるかというところに重きが置かれるようになった。

 だから「まちでアートをやる」理由というのはそこにあるわけです(3年かかってこの、アートの意味について断続的に考えていたのに、答えをくれたのは4年目のまったく予期しない時間だったことも皮肉なものだと思うけど、また別の話しで)。

 

 それなりに形がつけば、また頑張ってみようかと思えてしまうからやっぱりわたしは気分屋ということでいいかな。もうちょっと、ハッピーな気分屋になれたらいいのに(と同時に、やっぱり、こんなハッピー野郎は他に居ないんじゃないかと思うときもある)。