さまざまな変換を通した、一応の「わたし」を「だれか」に見せる意味

 「縦書きのBlogは何か表現の方法に影響を与えるのか」というのがとても興味深い気がして特に意味もないけれど、新しく、こうした想いのはけ口を作ってみました。と、いいながら、書いているこの環境は横書きなので、相変わらずなのですが(追記:しかも、スマホ版は横書き表示ですよねw)。ただ縦書きとなって出て行く事を想像すると、やはりちょっとは真面目な文章を書こうという気にもなるのは確か。

 少し前(もう2年前になりますか?)、ウメサオタダオ展に行った時に「ワープロで打つ時、言いたい事は一度ローマ字に直されている」という指摘を見た。申し訳ない事に、前後の文脈は全く覚えていないけれど、その事実への問いかけをただただ、思い起こしてはぼんやりと考える事がおおい。つまり、ここに書き出される事は、100%自分の気持ちを代弁しているわけではないのだろうということです。(それに、こうしたある程度書き直しが簡単に出来て、容易く間に挿入し直す事ができる環境というのは、利便性だけじゃなくて、意図の逸れやすさだって持っているとおもう。ちょうどこの文章みたいに)

 いつかポルノの晴一さんは、人と人は完全にわかり合う事ができないと言っていた。自分自身の考えだって、頭の中とここで既に隔たりがあるのだから、他人とはもっともっと距離があってしかるべき。昭仁さんは歌の中でわかり合う事を愛とか恋と呼ぶはずと言った。隔たりはそういった別の親しみで埋める事ができる。

 だからそこに壮大な愛とか恋があったら、どんな隔たりも埋めてしまうことがあるだろうし、ほんとうは隔たりも無いのにそこにただ漠然とした嫌悪があるのならわかり合う事はできないのだといえる。だからこそ、人は、せいいっぱい可視化した自分を、誰かに見せたいと思うのでしょうか。どこかに出しておかない事には、愛も嫌悪も生まれはしないからって。でも嫌われるくらいなら、出さない方がいいという気持ちもあったりして。見たい人(ちょっとはわたしを肯定してくれると思える人)が見えるくらいの、緩やかな範囲設定がきっと、心地いい。それがこのBlogのように。

 だけどこんな風にまだ長々としか、Blogの意味は語れないし、無理矢理こうして語ってみてもあまりしっくりとこない。書く事までは、なんとなく理解出来るけれど、それをネットワークにあげることまでが、いまこうしているくせに、よくわからない。