SMAPのファンじゃないけど

SMAPのファンではないけれど、解散のニュースはとても淋しく感じる。 さっき見たテレビでは、カンニングの竹山さんが「身内を失った時と感覚が似ている」と言っていた。かなり的確だなあと思う。それくらい、自分の生活にあたりまえのように存在しているということだ(そういえば、小学校の卒業式のテーマソングはSMAPだったなあ)。

そもそも正直なところ、私は音楽一本でやってきている「アーティスト」を応援している手前、「アイドル」が音楽番組に出るのはあまり好ましく思っていなかった。 だけど、3年前、とある番組の観覧に行ったときSMAPを生で拝見する機会があった。その日を堺に「国民的アイドル」の、「SMAP」の、凄さを身をもって知った。

その観覧はほとんどがSMAPのファンでうめつくされていた。スタジオがいくつかあったけれど、その8割~9割はSMAPのファン。中居くんが生で長時間司会をする番組だった。

私が自分の観覧の時間になってスタジオに入る前から、既に放送中の別のスタジオで中居くんは司会としてお仕事をしていた。それだから当然疲れも見えている。CM中はほんとうにつらそうにしていたけれど、カウントがかかるとぴしっと立って進行をこなす。スタッフさんが間違えてキューをかけたときは「ねえ、ほんとに勘弁して!!笑」と言っていたけれど本当に怒った感じではなくて笑いに変えちゃうような暖かさもあった。

生放送の観覧だったために、その時に実際にオンエアされるCMはスタジオにあるモニタでも映される仕組みになっていた。SMAPが出ているものが当然ながれる。そうすると、本人たちが居ないのに、ファンの方々が黄色い歓声を「盛り上げるため」ではなくて「ほんとうに心から絶叫する感じ」で上げていた。これが、アイドルの魅力なんだなあ、としみじみ思った。

そして、SMAP全員が出演するパートやってきた。 2つのスタジオを横断する形で、多くのファンと触れ合えるような構成になっていた。 こちらのスタジオにもCM中に彼らがスタンバイした。とっても近い距離で。

正直、アイドルなんて、とか思っていたのが普通にふっとんだ。 「わあ、すごい!!!SMAPだーーーー!!!」となった。 なぜかというと、ぼんやりと「こういう人だろうなあ〜」と想像していたそのままの姿がそこにあったからだった。

  • 中居正広さんは、司会の中居くんとしてずーっと番組をひっぱってきていた *1し、
  • 木村拓哉さんからは、完璧にかっこいいオーラ、まさに「キムタク」のオーラが出ていた。
  • 稲垣吾郎さんは、独特な立ち方で髪の毛をいじっていた。
  • 草なぎ剛さんは、びっくりするほど優しい微笑み方でファンの方々の声に耳を傾けていた。
  • 香取慎吾さんも、ファンの方をとっても優しい目で、にっこりと笑顔で頷いていた。

わあ、これがアイドルか。と思った。なるほど、これがSMAPか。と思った。 本当の素だとしても、演じきっているのだとしても、生で見るその細部までSMAPなのだ。 ファンの人達が熱狂して、歓声をあげたくもなるような雰囲気がそこにあった。 ファンの方々の声援をほんとうに心から嬉しそうに受け取って、そしてしっかりとそれに応えている姿が今でも印象にのこっている。

そんな光景を目の当たりにして、SMAPを、アイドルを見る目が変わった。 ほんの数分間、ファンではない私が見ても、すごいな、と感じる取る要素がそれだけ詰まっていたのだ(長いことファンをされている方からしたら、もっと違う側面もあるから素敵なのよ!!!というポイントもお有りだろうとおもうけれど)。 それ以来、SMAPやアイドルを見る目が変わった。彼らは彼らとしての使命や役割を、全身全霊で果たしているのだと知ったから。

意図せず、「SMAPをとっても近い距離で、見たんだよ!!」という経験が、その時以上に貴重な経験となってしまった。 そういうことも含めて、淋しい。と思う。

ファンではない、こんな一瞬見ただけの通りすがりにも、強烈な印象を残すほどのパワーがあったのだということを知って欲しくて。観覧の思い出を記した次第です。

*1:ちなみに、観覧が終わって、家でテレビをつけるとまだ同じ番組で中居くんが司会を続けていた。 さっき見たままの中居くんだった。

大学院のススメ

大学院を検討するときに見るとよい視点

  • [ ] すごくやりたい学部からの継続研究がある
  • [ ] 教授との相性がよい or 相談がしっかりと済んでいる
  • [ ] 研究者になるつもりである

 → ここまで全てにチェックマークが付く人は大学院に行っても問題無いでしょう。


  • [ ] すごくやりたい研究テーマがある
  • [ ] 教授との相性がすごく良い、尊敬している
  • [ ] 教授と院での研究テーマの相談が済んでおり、自分も納得している
  • [ ] 研究者になるつもりである、その道の就職先を希望している、すでに就職先は担保されている

 →全てにチェックマークが付く人は大学院に行っても問題ないでしょう。


  • [ ] 在学中の大学に院がついており、内部生への優遇(試験面)がある
  • [ ] 在学中の大学に院がついており、内部生への優遇(金銭面)がある

→ これらがあってもそこには惹かれないようにしましょう。


一言でいえば、学部時代からの継続研究でやる以外はあんまりオススメしないです。相当な努力をしても、時間的な差・基礎知識の差が出てきてしまいます。そうすると、就職活動をする時間がなくなります。研究者になる、もしくはその方面で関わっていたところで就職をするのならまだよいですが、そうでない場合は大変です。「好きなテーマならできる」とか「環境が変わればなんとかなるかな」とか、たぶん幻想です。それくらい、大学院は学部の延長線上ではなくて、もはやお金の貰えない職業みたいなものです。それだったら、卒業後でもアルバイトから正社員になれるようなところに入りながら自分のペースで就職活動をしたら良いとさえ思います。なぜなら、純粋に「2年出遅れる」からです。具体的には、勤続年数が必然的に少なくなるわけなので、ローンが組めなかったりします。同い年の同級生はもう仕事が板につき始めたり、転職をしていたりする、2年間になるわけです。

誰でも学生になれるような環境が整っているぶん、あまり考えないで進学してしまう人も多くなっていると思います。「大学院生は給料の貰えない職業…それでもやっていける覚悟と材料はもっているか?」と厳しい目線で考えて見たほうがよいと思います。学生の欠席からの退学よりも、精神的に病んでしまう辞め方が圧倒的に多いのも現実です。

小保方さんの一連の出来事も、他人事ではないように思えています。あれは誰が悪いというわけでなく、研究の世界の良くないところが表出したような気がしました。理系の社会的な研究でさえも、あんなにゆるゆるな体制なんだな…と。実際、正直教育機関の「ちゃんとやっていそうに見える」人へのチェックはびっくりするほど甘いと思います。すごく色眼鏡が効いている世界です。どこの学会の査読に通った、とか、どんな先生のところの学生だ、とかも…。

文系の研究では、もうひとつ、なんとかならないのかな?と思う点もあります。社会的な研究をしようとしているのに、その人達の多くが「社会に出ていない」ということです。どんな取り組みも、考察も、浮世離れになってしまうのです。「そりゃあ正論だよね」「それができてりゃあね」「時間とお金がそこに無限にかけられればやってるよ」的なことになってしまうのです。社会に寄与することが大半の研究の目的なのだから、特定のコミュニティの特異性を抽出する意義がなかなか見いだせないし、理解してもらえないのです。理解してもらえるだけの、説得材料がないと思います。

それでも、まあ、大学院に進んだ時間は無駄でなかったと思います。社会にでる準備をゆっくりと整えられたのかもしれません。学割とか長いお休みとかも、自分なりに使いこなせるのであれば、とても魅力的な時間になると思います。研究者にならないのなら、その領域の関連に進まないことを決めたのなら、学生生活は必要最低限におさえて自分の次の道を整える準備をするのが良いかと思います。

わたしは「研究者になりたかったな」みたいな気持ちを一切持たずに社会に出て行くことができて良かったと思うことにしています。ただ、できれば学部3年の時に決めかけていた会社に行っていたらどうなったのかな?と思います。そうなると、学部の研究室選びもきっと大事だったと思います。

やりたい研究がその時点でぼんやりともないのなら、そこで見つけようとしないで、研究室生活の色があまり濃くない研究室を選ぶべきだと思います。そして、就職活動をしっかりやり遂げるべきです。もしくは、就職活動に理解のある研究室、コネクションのある研究室を選ぶ必要があると思います。

ブラックバイトに寄せて【やりがいの搾取】

学生時代、金銭的報酬のないイベントスタッフとしてその説明会に参加した時のこと。 参加の特典としての報酬は「なんだかすごい先生のありがたいお話」だった(ここまで抽象度をあげてかくとちょっと変だけど…w)。 そしてその先生のお話は、わたしの理解力では「金銭的報酬はなくとも、この経験こそが報酬と思える、そう思えるひとはデキる人」というものだった(その時は必死に必死にそうか、そう思えるようになろう。なろうとしていた、少なくとも、一応)。

誤解がないように言っておくと、そういう考えかたの人が伸びるのは正しい。 その方自身の考え方はとても素敵だと思う。 日常生活が断片的に仕事やプライベートと分かれているよりは、横断的にいい意味で混在していて、そしてお互いにメリットのあるような生活をおくることがおそらく理想的な生き方だと、今もそう思う。

問題なのは「雇用する側」や「力のある人」が「下の人」に向かっていうこと。 報酬と思える経験かどうか、は報酬を享受する側が決めることだ。と思うから。 どんなに割にあわないこと、嫌な思いをすることも「はい、報酬のような経験だね!!!★」と言いくるめられてしまう息苦しさがある。 言いくるめられる、というか「つらいことも報酬と思えないようじゃあ、自分はダメなやつだ」という謎の無限ループに陥る。 内発的動機がない自分は異常なのだと思い始める。

ちなみに、一生懸命報酬だ、報酬だ、と思おうとしていた私の目を覚まさせてくれたのは

「死ね」

の一言でした。 言っておくと、自分が何かミスをしたわけでもなんでもない。

今も忘れもしない、尊敬していた先生にニコニコしながら言われたことば。日付もだいたいの時間も思い出せる出来事。

ほんとにくだらない会話の中の、周りを笑わせようとした中のほんとうに一瞬(後にお伺いしたらご本人は覚えてさえ、いなかった)だったけれど ぱっと 「ああ、この方にとって、私は自分って死んでも別にいい存在なんだなあ、あってもなくても、変わらないんだ」と思って そこで「駒感(使い捨て感)」が確信に変わったという、そんな思い出があります。 そんな風に思ってないかもしれないけれど、本能的にはそうなんだろうってこと、結構あるよね…そういうのって、何気ない言葉に出ちゃうんだよな、と思う。

よく、ブラックバイトだとか、そういうものとは別の危なさということもあったりする。 たぶん、こういうことに遭遇した人は 自分は稀有な機会に恵まれてるのに、どうして頑張ることができない?と悩むことになる。 たいてい、特別に声をかけてもらったり、特殊な機会だから、と参加できることに優位性があったりするものなので辞めにくいもの。 そうすると、バックレるとか、選択肢はあるんだろうけれど ばっくれる勇気もない人は、そっかそういえば死ねって言われたしなぁ、と帰り道の電車を待つ間に線路を眺めてぼんやりとそんなことを思ったりする(これって自殺企画というらしい…)。

課外活動などをしていて、それに時間も気力も取られていて…結局自分に何も残ってない!!みたいなことがある人はたぶん居る。 そういう人は、就職活動でも多分、その活動に参加していたことを一応話してみるけれど そこで得たものは?という問に、漠然とした「た、達成感…?」みたいな回答になると思う。

そうでなくても、できるようになったことはと聞かれて「◯◯を作るのが大変だった」「買い出しが大変だった…」みたいな作業にフォーカスがあたるようなもので、スキルではない(広い意味ではスキルかもしれないけれど、それは業務の中でその環境でささっと身に付けることの方が望まれるものだ)。もちろん、そうした作業ができること、そこに粘り強さみたいなものを評価してくれる場合もあるはずだけど。 とにかく、そんな環境にだらだらといる人は、一旦、考えなおしてみると良いのではないかな、と思う。(それでもって、自分が興味のあることに本腰を入れたいから、ときちんと説明して、やめよう)。

とにかく、内発的動機は取り組んでいたら来るようなものではなく、 お願いしたら生まれるものでもなく、意図的に発生させることもできず、たぶん勝手に湧いてくるものだ。 湧いたようには振る舞えるし、そういう「考え方」があることを理解して同じようにこなすこともできる。でもそれはつらい。

そして、それは環境への適応とつながる。 自発的にできるひとが偉く、成果物が良ければ更に評価される…

それが社会の流れになっているけれど

自然淘汰というものは、優位なものが残るというわけではないらしい。 その環境にたまたま合った人がたまたま残っているに過ぎないというのだ。

そんなにころころ環境を変えることなんてできないけれど、 合わない環境を嘆いたり、自分の脳力の低さを憂う必要もないということだと思う。だからといってそれにかまけていたらダメですけどね。 「合わせる」ところに労力が必要なくらいならそれは遠回りということ。

これに似たものに先生からの理不尽な要求に添えられる「社会に出たらこれくらいじゃあ、済まないからね」というセリフ。社会じゃないのだから、やめてくれたまえという感じである。 学生がわがまま言っていいというわけでなくて、「理不尽な押しつけをそういう理由でいうこと」が理不尽なのだ。

とにかく、学生という期間、それは葛藤の日々だった。

'今のスマホ漬けの若者たちが「ヒトリノ夜」と「アポロ」を聴いて何を感じるか、知りたいところだ'と言われたから。

2014年2月8日の朝日新聞のbe(だったでしょうか)の「聴くなら」というコーナーに「ヒトリノ夜」と「アポロ」が紹介されていました。
そのなかで'今のスマホ漬けの若者たちが「ヒトリノ夜」と「アポロ」を聴いて何を感じるか、知りたいところだ'という言葉が添えてあったので答えてみようと思います。

 

問いを言い換えたら「儚いデジタルのデータだけでつなぐ関係に何を思っているのか」ということで考えます。

わたしはこう解きます(晴一の辞書風にw)...
「手段が増えたぶん、よろこびもかなしみも2倍以上である」
もうこれに尽きるけど、お時間がある人は最後までつきあってください。

 

別に、スマホ漬いてるからって、手紙がなくなったわけじゃない。

(この間ちょうど晴一さんがラジオで言っていた気がするけれど)むしろ手紙を送る頻度が減ったことで、手紙が「特別」な手段になっているかもしれない。

それに加えて、「スマホがなければ繋がれなかったひと」に巡り会ってるっていう可能性もあると思う。

それはネットやグローバルな関係のことだけのことを指すんじゃなくて、日常のささいな関係のことにまで及ぶと思うのです。

 

中学生のとき、わたしは当時気になっていた人に、

ケータイのアドレスを聞かれました。だけどその時わたしはケータイをもっていなかった。もしその時にLINEみたいなツールがあたりまえに普及していて、自分も持っていたら、もうすこし踏み込んだ話しができるような関係になっていたのかもしれないし、それが原因でけんかをしたかもしれない。

結局そのひとは、家に電話をかけて来てくれるようになった。電話は必ず家族が取り次ぐし、会話はリビングにつつぬけだけれど、嬉しい言葉も言ってくれた。だけどわたしは恥ずかしくって、そのほとんどを拒否してしまった。

 

高校に入って年齢制限が解除された日から、わたしは毎日mixiで日記を書き始めた。

そうすると「ふだんあんまり喋ってなかったけど、日記読んだら結構話せるんだなってわかった」ってクラスの子に言われて仲良くなったことがある。

リアルとか、ケータイの日記とかで名前を出し合うことで友人関係が可視化されていたと思う。幸い、いじめなんてそこにはなかったと思ってるんだけど、実際はどうだったんだろう?勝手にテストの点を晒されたことはあったけど。笑

 

大学に入ってからも、mixiはしばらく便利なツールだったと思う。

大学1年生のころは毎日日記を書いて、コメントもそれなりに来たのを覚えている。誕生日にもいっぱいコメントをもらってすごく嬉しかったけど、同時に毎日更新するのが大変になってた。

夏休みにひとりの人と仲良くなって遊びにいった事を周りの人に知らせてはいけない気がしたから。公開範囲を限って日記を書くようになってた。だれにシェアをするべきなのか、してはいけないのかというのばかりに気を取られるようになっていた。

更新をやめます!!と宣言をして日記を書くのをやめた。その日記でさえ反応が気になってた。

2年生になって授業で紹介されていたTwitterに登録した。

講義の内容で気になった事をtweetしたら、尊敬する先生のほうからフォローしにきてくれて、tweetみてます!!って返事をもらって。それからしばらくして、わたしをみつけて学食で声をかけてくれたのがすごく嬉しかった。こんなに先生との距離が縮まったのはメディアのおかげだと思った。

でもその先生は同時に、講義でコメントシートを映し出してやりとりをするっていう方法もやっていた。自分が書いたコメントシートがもしかしたら講義中に読み上げられるかもしれないっていうラジオみたいな時間だった。

わたしはそのコメントシートを無記名で出した。でもいつも読まれた。「この人とは気が合いそうですね」って大教室で言われた。

2年生の途中では、趣味で書いていたブログがちょっとだけパブリックなものになった。

ブログを通じて、たくさんのリアルなお知り合いもできた。

3年生になって、プロジェクトが忙しくなった。Twitterやブログを更新する「ネタ」や「ヒマ」があることが後ろめたくなった。パブリックなお願いやアルバイトでしか、あまり書かなくなった。書きたいのに書けないという状況のなかで、Twitterを一回やめたりした。でも、連絡手段としてなければいけないツールになっていたから、1ヶ月たたないところでアカウントを復活させた。

4年生になってからは、FacebookやLINEをつかって、非公開のグループでやりとりすることが多くなった。見られたくないけど、連絡も会話も、議論もしたいっていう希望を変えてくれるツールや設定が豊富にあった。

同時に、その設定に狂いがあってはだめだった。自分が気をつけていても、他人の不配慮に不意に傷つくことがおこるようになった。

「大変申し訳ありませんが、予定が立て込みすぎて、この先君たちの論文を見ている時間がとれません。」でもその先生が「この投稿にLikeしました」と、Facebookの通知が知らせて来る。Facebookと、わたしたちを天秤にかけた結果が簡単に可視化されるようになっていた。

 そういったことを、LINEをつかって夜な夜なとりとめのない話しを交えながらしたこともあった。自分がおかしいと思うことが、自分だけじゃないのかどうかをすぐに、お互いに確かめあうことができた。

 

悪循環とも、徒労だとも言えるようなことが多いと思う。

辟易するような出来事がいっぱいあふれている。

その傷を癒すのに、同じ手段を使うとは悲しいことだと思う。

 

この文章も、ずっと下書きのまま保存していた。

文章を書くのが嫌いだと気付いたり、インターネットそのものがいやだと思ったりもした。もう400日近くも前の日記だけれど、今すこし継ぎ足して外に出そうと思う。(2015.2.10)


 ほとんどのコミュニケーションにはLINEを使うようになった。パブリックじみたこともプライベートも全部LINEでできるようになった。Facebookは相変わらず、余計な事を知らせてくれるから嫌いだ。相対的な幸せに拍車をかけるツールだから、大嫌いだ。だけど、これが研究材料だから、これがなければ私は卒業試験に手をかけられなかったとも思う。

 

 最近は大切な人から「手紙」をもらった。誕生日プレゼントに手紙をお願いしたら、すこし忘れたころにくれた。それは、スマホ漬けだからこそ、希少価値が上がった、とってもレアなもの。メールもあまり好きではないという人が手紙をくれたんだ、それだけで宝物。おそらくLINEでぽんとトーク内容を送るよりも、時間を逆算して、内容をきっとすこしは想像して、ペンを走らせたのだから。

 

 こうやってツールが増えることは、選択肢もそれに伴う価値も倍増することにつながる

おっきな幸せを得る事も、必要以上に落ち込む事もできてしまう。だから、電波が不安的なときには思い切ってiPhoneは電源を切っても良いしここぞというときに、素敵な便せんを選んでもいい。パブリックじゃあそうもいかないことがあるなら、プライベートならなおさらでしょう。

 

全部自分が前向きに頑張れるように使うようにしたいものだな、と思う。色々と自戒を込めて、公開ボタンを押す。 

恋していると客観的に知る方法

無意識に恋愛コラムに目をやっていたらそう。

 

集中していたかどうか判別する方法

 時間を忘れているか、空間を忘れているか。

 

自分が前より大人になったかどうか知る方法

 自分が「こうしたら、こう」ってことがわかる。

その数が増える。

 

 

ラヴ・E・メールフロム…

 わたしがアポロという曲に出会ったのは、発売当時、小学校の朝会、「今月の歌」でした。毎回担当の子が手書きで歌詞を書き写して、それをコピーしたモノが配られていたのだけれども、なぜかアポロの時だけは歌詞カードをそのままコピーしたものが上質紙で配られました。そして他の曲の歌詞カードは藁半紙だったので破れたり劣化したりで捨ててしまっていたのに、アポロの歌詞カードだけは、お道具箱に凄く綺麗にしまっていた。そして、今でも大切にとってあります。

 中学生の頃に書いていたBlogのアカウント名は、loveemailでした。その時のBlogのスタンスが、今最近始めたこのBlogみたいな立ち位置でした。それから少し放置しながらも、2008年10月19日になってこんな日記を書いていました。

 ポルノグラフィティ衝撃のデビューシングル「アポロ」昭仁さんが金髪外国人だったころ、私は小学生でした。そういえば、このブログのID「loveemail」はこの歌詞中の「ラヴ・E・メール」からです。その頃、小学生の理解力では「変わらない愛のかたち」とかわからないし、そもそも、なんでラヴメールの送り主の場所が、「ビーナス」であることのどこがステキなのかもわからなかった。でも、何年も先のある日、じっと歌詞と向き合ってた時、「あー・・・そういうことか。」って思えたんです。世の中では、ファンの間では、とっくに周知のことだったかもしれない。だけどやって自分で見つける意味って本当に大切だと思う。そうやって「右なら右が、どうして右か」っていうことが一般論じゃなくて「感覚」でわかるのって。

 

これって、ひとひらの歌詞に通ずるものがないかな、なんてひとりでにやにやしてました。まるで違う曲のよう。

アポロという曲そのものも、時を経て、幾度ものライヴをこえて、意味や位置づけが変わっている。

一緒に過す時間が長いだけそこに誇らしさがあるように思えるのは、こんな風なお互いの価値が混ざり合ってきた期間があるからなのかな。

今年の曲

  マイベストソング2013〈今年の1曲でiTunes Cardを当てよう! 私のマイベストソング2013♪〉

 

今年の漢字が発表されましたね:) 流行語にしてもなぜか今年は発表されるのが早いなと感じます。実際はどうなんだろう??

それは今は置いといて、今日は「今年の曲」について書きます。

 

Hard Days, Holy Night

Hard Days, Holy Night

  最近のヘビロテを今年としてしまうのはずるいかもしれませんが、たくさん語れるということで許して下さい。この曲...!!!(縦書きだと綺麗に表示されてないねorz)

 なんといっても、ポルノさんがベストを発売することを契機にiTunesにも曲を配信してくれるようになったこと(music.jpもだけどね!)が大きくて。iPhoneにもポルノさんの曲を入れようと思って、嬉しくて買ったのがこの曲、Hard Days, Holy Nightです。コピーコントロールがかかっているCDしか手元にないからipodには入れていなくて、季節もちょうどあっていたし:)

 それから、iTunesに入っている曲を解析してコードを出してくれるっていうアプリを使うためにiTunesに曲を何かいれたかったのです。

 

 さて曲について。この曲、「猫の手も借りたい」と「師走」が混じっちゃうほどてんやわんやしているところから始まっていて、歌詞が面白いのです。

彼ら自身は「アンチクリスマスソング」といっていて、山下達郎さんの有名な曲「クリスマス・イブ」を皮肉っているところもある。

 ライヴではプレミアム感もお楽しみ要素もある曲。クリスマス時期の公演でしか演奏されないし、会場をワガママな彼女に\特別な日なのに/、昭仁さんを彼氏に\知ってるさだって課長が/...こんな風にコールandレスポンスもできる。

 2003年発売だから、もう10年も前の曲なのですね。それでも古さを感じないな。彼らにはサラリーマン経験がないだろうに、描写がとてもうまいなとも思う。

 去年はクリスマスがちょうど休日だったけれど、今年は平日っていうのが2013年のクリスマス模様なわけで、去年は会えたけど今年はねっていう状況が歌詞と少しリンクしている気がするの。

 この曲の「2人」は去年と今年を比較出来るほどに1年間を一緒に過ごして来たのね。ということもふと思って、ほっこりもする。

 今まではポルノさんのクリスマスソングとしてというイメージが強くあったけど、こうしてiTunesを通して1曲だけ大切に聴く事ができたからこんな風にたくさんのことを思える曲になりました!ってことで今年の1曲はコレ。